変わるって壊すことなのかなぁ。
変わるって壊すことなのかなぁ。
人と人との間には深い深い谷があって、誰もがあまり近寄らないようにしていて、たまに近づくと落とされたり、落ちそうになったところを引っ張ってくれたり、落ちたら言霊の落葉がクッションになって命拾いするこがある。落ちて死なないことを祈る。
価値の無いモノを徹底的に削ぎ落としていったら、価値の無いモノが出来上がっちゃいました。
新聞、小説、国家。贈り物と名前。
想像するというのが、上手く取り扱えない。感覚器官が捉えて脳が処理した残り香をいじりまわして形にならない。
この部屋には容れ物と容れられる物があって、容れられる物が散らかっている。プリント類と服と本などなど。それらに色々な家具がスペースを与えている。机とテーブルと棚などなど。ベッドも自分を収納するためのものだ。
何かが散らかっているのはすぐにわかる。収まるべきところに収まっていない。だから何とかして、容れ物が与えるスペースに片付けようとする。面倒くさくて、片付けない。物を収納するのにも芸がいるのだ。と思ってしまう。
でも、問題は容れ物にあることも多い。
生活しようとすれば、家具はとても重要なものだ。それは日々の土台、空間を形づくる骨、身体をあずける支えだ。だから自分にあった容れ物を適切に配せねば、どうやったって散らかってしまう。崩れていってしまう。
容れ物はデザイン、容れられる物はファッションである。ファッションよりも、まずはデザインを。
疲れてることがわかると嬉しくなる。疲れてる、なんてまともなことを思える自分が、まだいたんだって。
ふれれば裂けそうな指が欲しい。何時間でも見ていられる。
枯れた盆栽の器を洗ったら、綺麗になった。本当に綺麗だった。枯れたことが、本当は堪えてた。気付いていなかった。今もよく分からないけれど。
そんな風に喋ってくださっていたころは、幸せそうで悲しそうだった。そんなことがあるんだって、だからずっと憶えてる。
「ぼくだってしょっちゅう悩んでるよ。だけど、それが感情とどうつながるのかがよくわからなくて。ぼくが本を読むのは、そんなときにどうしたらいいのかを学ぶためでもあるんだ。そして人は愛情ゆえに口をつぐんでいることもあるんだって学んだ。まったく同じ理由で、ときには大切な人と悩みをわかちあうってこともね」
天球儀とイングランドの魔法使い (創元推理文庫)
何度か、おつかいをした。ご飯をたびたび忘れるの。その声はだいぶ薄れてきたけれど、まだ残っている。
いつだったか、喧嘩になった。
気持ちは嬉しいけれど、何もしてほしくないの。そう云われたとき、おそらくすごくショックで、わたしはまだ子どもだったから(現在も大して変わってはいないけれど)、自分の思っていることをうまく伝えられなかった。強情を張って、それであの人が折れてくださったんだと思う。それが良かったのか悪かったのか、今でもわからない。
それから何度か、ご飯を作った。
なんで、って思う。
いつもずっと何かをしていた、なんてことはない。記憶が薄いのは記憶するような行為や思考を行ってこなかったからだ。だから自分がすごく軽い存在であるように思える。でも、重さを求められているように感じる。多少の風が吹いても、そこに留まっているよう期待できる程度の重さが。
その重さを言葉で伝える。だって便利だ。何かを物語るのに言葉以上に普及しているツールはない。言葉を選んで重ねて、そこに質量が伴うように声を発する。そんなことをやってのけるなんて、まるで自信がない。だから。
なんで、って思ってしまう。
地面があるなんか幻想だ。それを無視するのが生活の支えになるのなら、忘れたい。
みんな、無駄がないのが大好きだ。
効率よく仕事をし、私生活も充実させなければならないらしい。
弛緩する時間さえ、仕事の効率を上げるための、あるいは美しくなるための道具、みたいな発想をよく見かける。
見かけるたびに「うへえ」と思う。
友だちや恋人や家族まで、(自慢の種や生活の利便のための道具として)良いのをそろえておいたほうがいい、みたいな言説に至っては、「そんなの好きにしろ」だ。
そういう世界は砂漠だ。なぜかというと、自分の存在にはそもそも意味がないのに、あらゆる存在に意味を求めるからだ。
他者の規定の方法論は簡単に自己規定に跳ね返ってくる。
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